Monthly Archives: May 2007

私の33年前(1974年)の世界一周旅行日記 44

1974年 3月3日 リスボン2日目 良いお天気。ぶらぶらと繁華街ロシオから海岸べりを少し歩いてアルファマへ行く。15世紀の家や石だたみの坂道をゆったり歩く。窓際の洗濯ものの干し方は現代離れというか中世というか、ラテン系らしく派手で映画の場面の中に入ってしまった感じがする。アルファマの坂道を登りつめてサンジョルジョ城に行く。ポルトガルの特有の赤黄色いレンガの屋根々と海が一望に見渡せる。緑ゆたかで公園のようだ。町中の屋根の色が同じという珍しさと、その色合いの美しさと、同色の屋根がこんなに美しい景観をもたらすとは!と、 しばらく心奪われる。ファドーの練習風景が見られ、歌声が流れてくる。 あゝこれがポルトガル。リスボン。  夕食、大衆食堂に入る。 言葉が解らないので、幸治はナプキンに豚と魚の絵を描いて注文した。その絵が人気を集めお店の人以外にお客さんたちも見に来る。みんなにこやかに笑いかけてくれる。人なつっこい人達。 味もおいしく魚は塩ゆで、実に美味。豚はソテーしてくれておいしい。実は二人とも豚の丸焼きが出てきたらどうしょうかと心配した(笑)。私は折り紙で鶴を作ってあげたら、大喜びしてくれた。 昼食時のロシオのカフェテラスで見かけた貧しそうな絵描きのおじさんのことが、何故か心に残る。 振り返って・・・・・「火宅の人」壇一雄が日本を離れポルトガルに住みアミーゴ(一生の友)と書いているのは、とても理解が出来る。どことなく哀愁があり、何よりも人々がやさしく親切で、食事も日本人においしい。しかも気候が良い。 ただ、日本から遠いのが難点。今、私は1ケ月か2ケ月程のんびりとショートステイしたいと思っている。 昔の覇者であった国が、落ち着きと平和と暮らしやすさを得ているように感じる。日本は少し見習う必用があるように思う。経済の発展ばかりに目を向けないで、心豊かにやさしく生きていくことも考えなければ・・・。日本の行き着くところはどうなんだろう?

Posted in General | Leave a comment

前長崎市長伊藤一長さんを偲んで

前長崎市長、伊藤一長さんが理不尽な凶弾でお亡くなりになられたショックでしばらくブログが書けなかった。友人からの電話で慌ててテレビをつけ事件を知ったのは1ケ月前。ずっと眠れず「どうか、生きください」との祈りも虚しく深夜に辛い結果を聞いた。 主人も私も流れる涙が止まりませんでした。 主人が「長崎さるく博06」のコーディネートプロデュサーをお受けしてからのお付き合いでした。一長さんは主人と同大学、同学部、同学科の一年先輩だということで、初めてお会いした時から信頼関係は出来たように思います。 私が始めて親しくお話が出来たのは「さるく博」の閉幕日の翌日、市庁舎に主人と無事に終わった報告とお礼を兼ねてお訪ねした時でした。市長応接室で三人、チャンポンをご馳走になりながら「長崎のこれから―観光・農業・漁業・商業・平和―を熱く語ってくだっさた一長さん・・・。私は多くの政治家、首長さんにお会いする機会があったけれど、伊藤一長市長ほどの情熱と意識をもった良い意味での地方政治家はおられない。しっかりしたビジョンを持って行政を引っ張っておられた。その上、気さくでとても親しみのある政治家だった。部屋を辞して長い廊下を歩いて振り向くと、一長さんがいつまでも90度に腰を折り頭を下げて見送ってくださっているのに気がつき恐縮したのでした。     お亡くなりになる数日前、主人は長崎県の委員会で長崎に行くことになりました。同時に、長崎市から「さるく博」の感謝状をいただくこと、長崎観光大使を任命されることになって、私も一緒に長崎を訪れました。主人は感謝状や賞にはあまり興味を持たない性格ですが、いただけるのなら、伊藤一長市長名での感謝状が欲しいと希望を出しておりました。 その日の夜、市長ご夫妻と私たちでお食事をして、夜遅くまで長崎のことを話をしたのはついこの間のこと・・・・。ご冥福を心からお祈りしております。 小柄な奥様の悲しみと憤りはいかばかりかとお察しいたします。時の過ぎ行くことが唯一のお慰めになるのでしょう。報道されたお嬢様の言葉は、病気や事故ではなく凶弾で殺された実父の、その娘として、しかも若い30代の言葉でしょう。それを取上げて色々とおっしゃる方がおられますが、辛いことです。 新市長、田上富久さんは当時、観光部署のご担当者として主人を長崎に招かれた人。田上さんの熱意に根負けして、二度と博覧会のプロデューサーはしないと言っていた主人が長崎を訪れたのが「さるく博」の始まり。長崎をとても愛しておられ真面目で誠実な人です。期待と応援をしております。  

Posted in General | Leave a comment